天皇陛下のご譲位
衆議院議員 吉田つねひこ(統彦)~はじめに~
私は、昨年の12月23日(土)の天皇誕生日祝賀 宴会の儀へ出席致しました。
宴会の儀は、天皇陛下が皇后陛下とご一緒に、衆・参両院の議長・副議長・議員、内閣総理大臣、国務大臣、最高裁判所長官・判事、その他の認証官、各省庁の事務次官など立法・行政・司法各機関の要人、都道府県の知事、各界代表者とそれぞれの配偶者を招いて宴会を催され、祝賀をお受けになる行事で、皇太子殿下をはじめ皇族方も列席されました。
今回の宴会の儀 出席に際し、天皇陛下のご譲位についてお言葉を拝聴させていただいた内容に関して、お話をさせていただきたいと思います。
報道などでは退位という言葉がよく使用され、また、後述するように法律も退位としていますが、陛下はお誕生日に際し12月20日そのお言葉の中でも、結びのお言葉の前に“この度、再来年4月末に期日が決定した【私の譲位】については、これまで多くの人々が各々の立場で考え、努力してきてくれたことを、心から感謝しています。残された日々、象徴としての務めを果たしながら、次の時代への継承に向けた準備を、関係する人々と共に行っていきたいと思います。今年も残すところ僅かとなりましたが、来きたる年が国民皆にとって良い年となるよう願っています。“と述べられ、陛下御自身は退位というお言葉はお使いになっておられませんので、本来は譲位が正しいのではないかと思います。
さて、天皇陛下の譲位を可能にする特例法(天皇の退位等に関する皇室典範特例法)が2017年6月9日午前の参院本会議で可決、成立しました。譲位が実現すれば江戸時代後期の光格天皇が文化14年(1817年)に仁孝天皇に譲位して以来、約200年ぶりとなります。譲位は皇室制度の根幹に関わる問題でもあります。実際に旧皇室典範策定時、明治天皇は譲位を可能とするよう望みましたが、初代首相だった伊藤博文は一蹴しています。理由は譲位により皇室で権力闘争が起きることを恐れたからでした。
そのような中で、天皇陛下の譲位の日程を決める皇室会議が12月1日、宮内庁で開かれ、平成31年4月30日に譲位し、皇太子さまが5月1日に即位され、改元することが決まりました。ちなみに皇室典範第28条第1項・第2項で皇室会議は以下の議員十人でこれを組織すると決められています。
1.皇族(二人)定数は二人(皇室典範第28条第2項)。成年に達した皇族の互選による(皇室典範第28条第3項)。任期4年(皇室典範第32条)。
2.衆議院議長及び副議長 衆議院が解散(衆議院解散)されたときは、後任者の定まるまでは、各々解散の際、衆議院の議長、副議長又は、議員であった者が議員の地位にとどまる(皇室典範第31条)。
3.参議院議長及び副議長
4.内閣総理大臣 内閣総理大臣たる議員は、皇室会議の議長となる(皇室典範第29条)。
5.宮内庁の長(宮内庁長官)
6.最高裁判所の長たる裁判官(最高裁判所長官)及びその他の裁判官一人 最高裁判所長官以外の裁判官については最高裁判所長官以外の裁判官の互選による(皇室典範第28条第3項)。任期4年(皇室典範第32条)。
政府は、5日の閣議で会議の結果を報告し、8日午前の閣議で、天皇陛下の譲位日を平成31年4月30日と定める政令を決定しました。翌5月1日に皇太子殿下が即位される日程も正式に決まりました。宮内庁の西村泰彦次長は12月25日の定例会見で、天皇陛下の譲位後の人員体制について、上皇、上皇后となられる天皇、皇后両陛下を支える新設の「上皇職」職員を60人台で発足させ、新天皇になられる皇太子殿下のご一家を担当する「侍従職」は70人台とし、秋篠宮ご一家をお支えする新設の「皇嗣職」は、皇太子ご一家を担当する東宮職と同規模の約50人規模とする見込みで、現在、秋篠宮家のお世話をする職員約20人から30人程度増えるとみられます。新体制となるのは皇太子殿下が即位される平成31年5月1日からの見通しで、宮内庁全体で計約40人程度の増員が必要で、西村次長は今後、関係省庁と調整を続けるとしています。
約200年前に譲位された光格天皇は閑院宮典仁親王(慶光天皇)の第六皇子として生まれ、聖護院に出家する予定でしたが、後桃園天皇崩御の際に、先帝唯一の遺児・欣子内親王を中宮に迎えるのに適齢ということで践祚、安永9年(1780年)に即位しました。現在の天皇家の皇統はここから続いており、光格天皇は明治天皇の曾祖父にあたります。光格天皇は天明の飢饉の際に政治介入したことが有名です。天明の飢饉では、東北地方を中心に全国で約2万人が餓死し、疲弊した農村の農民は都市部に流入、京都もまた例外ではなく、飢えた人々は助けを求めて御所に殺到、その数は最大7万人にも達しました。後桜町上皇は3万個のリンゴ、有栖川宮や一条家、九条家、鷹司家もお茶や握り飯を配り救済に乗り出したが焼け石に水であり、この事態を憂慮した16歳の光格天皇は幕府に民衆救済を求めますが、こういった政治介入は禁中並公家諸法度への違反行為でありました。当時の幕閣はこれを緊急事態として不問にふし、米1,500俵を京都市民に提供することになりますが、ここから朝廷の幕政への関与は少しずつ強まることとなります。また父・閑院宮典仁親王(明治17年に慶光院の諡号と太上天皇の称号が贈られる)への尊号事件で朱子学の大家である松平定信を中心とする幕閣と有職故実の博学さをもって渡り合った気概を持ち、光格天皇のこれらの行動は庶民の間にも風聞として伝わり、のちの尊皇思想へとつながっていったといわれています。文化14年(1817年)、光格天皇は仁孝天皇に譲位され天保11年(1840年)崩御、宝算69歳。民衆思いで博学多才だった光格天皇は、近代皇室の礎をつくりあげた英主とも讃えられます。
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吉田統彦(つねひこ)先生プロフィール
東海高校を経て名古屋大学医学部、同大学院卒業。
米国ジョンズ・ホプキンス大学ウィルマー・アイ・インスティテュートにて勤務。
眼科医。医学博士。愛知医科大学医学部客員教授。
昭和大学医学部客員教授。名古屋大学医学部非常勤講師。
愛知学院大学歯学部眼科学教授。名古屋医療センター非常勤医師。
衆議院議員。
- 2018/05/20(日) 00:00:01|
- 檄
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